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「野口雨情」

本名、野口秀吉。廻船問屋を営む名家の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。父・量平、母・てる。

4年制小学校・4年制高等小学校を終了後上京。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に師事するが、1年余りで中退、詩作を始めるこのとき1901年、英吉19歳。
父の事業失敗と死により、1904年、故郷に帰り、家督を継ぐ。このとき、家の没落をふせぐために、家族(つまり亡父や親族)から、栃木県の資産家の娘との政略結婚をお膳立てされており、英吉は同い年(23歳)の高塩ひろと結婚するが、もともと気の進まない話で、後年、破綻する。
この頃酒におぼれたというが、詩作にも打ち込み、朝餐会などで発表していた。「雨情」の号を名乗ったのもこの頃である。1905年(明治38年)処女民謡詩集『枯草』を水戸から自費出版。しかし反響は得られなかった。

妻ひろは、1906年に長男の雅夫を生んだ。しかし、雨情は窮屈な家庭を飛び出し、事業で一旗揚げる名目で樺太にわたるが、失敗。一緒にコルサコフまでともなった芸者に金を持ち逃げされてしまい、のこった金で林檎を貨物列車の一両分、東京に送って売ろうともくろんだが腐ってしまった。

妻ひろが状況して雨情を連れ戻しに来たが、そのまま東京にとどまり詩人になると宣言。1907年(明治40年)一月より『朝花夜花』なる民謡月刊を発行するが不発。同年、三木露風、相場御風らと共に早稲田詩社(月二回会合する会)を結成するが、その後しばらく詩作から遠ざかる。この時期(1906-1909年)、雨情は北海道に渡って新聞記者となっていた。『小樽日報』に勤めていたときには同僚に石川啄木がおり、交友を結んだ。雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こしたが敗れて退社し、啄木とは1ヶ月足らず机を並べただけに終わる。『小樽日報』を首になったちょうどそのころ(1907年10月)、妻は女児みどりを出産したが、この子は一週間ほどで亡くなった。のちの『シャボン玉』はこのとき夭折した娘のことを歌っているとされる。「ウキペディアより」
酒におぼれる日々。ある日、一週間で亡くなったみどりが涙を浮かべて泣く夢を見る。
一週間した生きることができなかった娘のことを思い、立ち直らなければと決意する。「シャボン玉」はそんな中でつくられた。
シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた
シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた
風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ