理事長・院長挨拶
今年はあきた病院創立50周年の節目になります。そのことを記念して本日ホームページを一新しました。この機会に当院のこれまでを振り返ってみたいと思います。
1972年、昭和47年にこの地にあきた病院は創立されました。明治元年の熊本県はほとんどの地域が村であり、あきた病院周辺も現在の町名の村ばかりでした。沖新村や八分字村、砂原村といった今の町名の名前が既に村の名前としてあります。1874年、明治7年に村の統合が行われ、そのとき会富(あいどみ)村という名称が初めて出てきます。1879年、明治12年郡制度が施行され現在の熊本市中央区の一部、西区全域、南区の大部分、北区の大部分という広範囲を管轄する飽田(あきた)郡が発足しました。1896年、明治29年に飽田郡と詫麻郡(主に熊本市東区)が合併し飽託(ほうたく)郡ができました。この当時の熊本市は現在の熊本市の中心部のごく狭い範囲でしかありませんでした。1955年、昭和30年八分字村、藤冨村、浜田村、並建村、白石村、畠口村が合併して飽田村ができ、そのころから日本は高度経済成長期に入ります。1964年、昭和39年には東京オリンピックが開催され東海道新幹線が開通しました。1971年、昭和46年町制施行により飽田村は飽田町になり、その翌年にあきた病院が創立されたということになります。その前後から飽託郡の各町村は徐々に熊本市に編入され、1991年、平成3年に飽託郡と飽田町という名称は消滅し熊本市に編入され、飽田町の一部が現在の会富町となりました。
1972年、昭和47年創業当時は高齢者を自宅で家族が介護する時代でした。創業者である吉村盛雄先生が地域の農業、漁業の方たちが介護をしながらでは仕事ができず困っておられる状況を見て、この地に50床の長期療養病院を設立されたと伺っております。その後増床を重ね、リハビリ棟建設、健康診断開始、デイケア棟建設、在宅介護支援センター建設、訪問看護開始、病院名を漢字の「飽田病院」からひらがなの「あきた病院」へ変更、グループホーム萌建設、福祉用具販売開始、平成21年には現在の佐渡会長に理事長交代となり、敷地内全面禁煙実施、16列CTの導入、日本医療機能評価機構からの認定、介護病棟から医療療養病棟への転換、さらには回復期リハビリ病棟への転換、365日リハビリ開始、介護医療院への転換、地域包括ケア病棟への転換など目まぐるしい変遷をたどってきました。現在の職員の方で30年以上在籍者は11名、20年以上在籍者は25名、10年以上在籍者は61名、合計97名いらっしゃいます。全職員の40%が10年以上ご勤務されていることになります。様々な歴史の中で当院当法人に長期勤続された方々が今日のあきた病院を支えてこられました。様々なご苦労があったことでしょう。人それぞれに生活があり家庭環境も異なる中で、人生の貴重な時間の多くを当院当法人での仕事に費やし永年勤続していただいた皆様に改めて敬意と感謝の念を表したいと思います。
「あきた病院の夢」は「人々の幸いを創造する」ことです。このことは患者さん、利用者さんの満足を得る上で、われわれの行動指針として、そして地域社会にとって最も重要なことであると改めて認識しています。今でこそよく似たフレーズを理念等に掲げる組織もありますが、早くからこのことが人の心に最も響き、組織運営の要諦であることを見抜いた経営陣の慧眼には脱帽するばかりです。私はこのことを「夢」ではなく現実の出来事、日常の出来事として普通に実践されるよう法人を運営していく責任を感じています。
多くの人にとって人生の時間というものは、その時その時はとても大変だと感じても振り返れば些細な出来事に思い、ゆっくりと過ぎて少しも変化しない、あるいは逆にとても速く過ぎて時間が足りないと感じても振り返ればすべては矢のごとしと感じるもののようです。一方で人生のある時期だけは時が止まったように感じる方もいらっしゃいます。大変なご苦労をされた方々ではないかと思います。この数年はITの進歩、少子高齢化、人口減少、災害、新型コロナウイルス感染症、そして戦争と、時代の変化の大きな節目にあるのは間違いありませんが、過去にそのような節目の時がなかったわけでもありません。今の時をどう感じようとも時の波を臆せず抗わず、時を大切にし、地域の皆様とともに一歩一歩乗り越えていきたいと思います。